キックボード旅人の日常

キックボード旅人による、旅の話とか日常のこと。

ヤバイ日本語

若者言葉に嫌悪を感じるようになった、ジジイです。
そんなジジイが、もはや当然のように嫌っている言葉の1つに、「ヤバイ」がある。
この「ヤバイ」について、いろいろ考えてみよう。


【意味】
ジジイが嫌う理由の1つが、言葉の抽象的さであろう。
うまかろうが、まずかろうが、痛かろうが、気持ちよかろうが、あらゆることに使える。
もしこの言葉を辞書に書くとすれば、さしずめ「通常時よりも何かしらの変化を感じたさま」などであろうか。

例えばおいしいラーメンを食べたときに、なぜおいしいか、どうおうしいか、人それぞれあるはずだ。
自分の好きな店と同じ味とか、もともと味噌ラーメンが好きだから好きだとか、極度の腹ペコなのでおいしく感じるとか。
そういう個人それぞれの感想を伝えることで、会話というか言葉に面白みが出るんじゃないかな、と思う。
味の感想がすべて「ヤバイ」というグルメ本なんて、読みたくもなくなるはずである。


【類語】
とはいっても、実はこういった言葉は、今さらはじまたわけではない、と思っている。
ここまで汎用的ではないながらも、「かわいい」なんて言葉もそうだ。
< 一時期は、ムンクを見て「かわいい」という女子高生達がどうこうと、テレビで取り上げられていた。
ムンクだけならず、見たものすべてに、それに愛嬌や愛着の有無問わず、「かわいい」と表現する、という手法である。

もう一歩離れるかもであるが、「ぶっ飛び」「ゲロゲロ」「どんだけー」など、「とりあえず感想を返す」という中身のない言葉は、しばしば流行化されてきた。


【危機】
この言葉の普及により、ジジイが勝手に危険だと妄想するのは、先ほども触れたが、個人の主張が乏しくなるのではというところ。
ブログなどの文章にしろ、会話にしろ、「自分がどう思ったか」という感想がなければ、言葉は中身のない空虚なものに感じる。
果ては、その人自身すら、中身のないヤツだ、と思われかねない。

極端な話、とりあえず言葉さえぶつけておけば、そこにまったく中身がなくとも、会話が成立してしまうということになる。
そもそも、それは会話なのか?
ただ寄生をかけあう、動物そのものではないだろうか。


【対策】
では、どうすればいいか。
「“ヤバイ”って言葉使うな!」と頭ごなしに大人がほえたところで、子どもは聞くものではない。
義務教育のせいにするのも、無責任な話である。

やはりここは、子どもを育てる親のせいにしておけばいいか、とジジイは考える。
子どもの会話にしっかり耳を傾け、「そこでどう思ったか」「どういうところにそう感じたか」という、一歩踏み込んだ会話をクセづけさせるのはどうかな、と。
見聞きしたことだけでなく、なぜそのおもちゃがほしいのか?そのおもちゃを手に入れてどうしあわせなのか?など。

そこまでできるかい、と実際子どもを育てている人らに怒られそうな意見で申し訳ない。
けれど、アメリカなんかでは、そういう教育をしっかりしているらしい。
だから交渉やプレゼンがうまいのだ、ということを聞いたことがある。


とまぁ、ただ「ヤバイって言葉嫌いだ」と言いたいだけが、ダラダラと書いてしまった。
こんなまとまりない文章を書いてる僕自身も、なかなかヤバイ